許せない男

憎い奴がいる。
わたしはそいつの顔も名前も知らない。会ったことも、話したことも、写真すら見たことがない。今現在、どこにいるのか、生きているのかどうかさえも知らない。
わかっているのはただ、男で、20代か30代・・・60代くらいの人間からすると「若い」と評される年齢、ということだけである。
会っても話してもいないのだから、むろんそいつからわたしは直接危害を加えられたわけではない。しかし、そいつのせいで多大な迷惑を被ったことだけは間違いない。

そいつとは、
わたしの前に、今わたしが住んでいるこの部屋に住んでいた奴のことである。

「男」で「若い」というのは、このマンションの大家さんや隣の部屋の方にきいた情報である。初めて彼のことが話題に上ったのは、わたしが入居して数日後のことであった。
わたしにとっては初めての独り暮らしだったので、何が必要で何が必要でないかは、毎日の生活の中で少しずつ学びとっていくしかなかった。それで、
「玄関には電燈がないと不便」ということに気づくまでにも、数日かかったのであった。
玄関には、最初から電球はついていた。
しかし、壁のスイッチを入れてもまったく「灯り」としての用をなさなかったので、わたしはてっきりこの電球は切れているのだと思っていた。独り暮らしで来客のあてもないし、別に切れていても問題はないと思ってほっといたのだが、何日か暮らすうちにやはり不便であると気づき、新しい電球を買おうと決心し、念のためもういちど壁のスイッチをオンにしてみた。
そこで初めて、この電球が切れているわけではないことに気づいたのである。
それは、紫色のパーティーライトだったのだ。
なんで玄関にパーティーライトが要るのだ、などということは深く考えないことにした。近頃のナウなヤングどものあいだでは、生活感のにおいがしないおしゃれな部屋作りが流行っているときく。きっとここの前の住人も、この70年代フォークソングの香り漂う畳部屋をモード系だかヘヴィメタだか知らないがいっしょうけんめいそれっぽく改造しようと、涙ぐましい努力をしたのだろう。
が、しかし。じつはこの部屋には、もうひとつ迷惑なものが存在していた。それは目につくところにあったので、玄関のライトより前に気づいていた。
わたしの部屋は、玄関スペースから部屋へ入る境いが障子に見立てた格子の木枠にすりガラスをはめた引き戸になっている。その引き戸に、
「自動ドア」
と書かれたプラスチックプレートが貼ってあるのである・・・
わたしははっきりいって、こういう冗談はきらいだ。
10代の頃ならば自ら率先してやっていたであろうが、だからこそ許せないというところがある。
しかし、これが10代の、デザイン学校かなんかに通う冗談好きの、夢多き悩みも多き少女の仕業だとしたら、まあ許そう。100万歩ゆずって若かりし頃の自分の姿を重ね合わせて、ほほえましい気分に無理やりなってやらんこともない。
そう思っていたのに、翌日、玄関は暗いのでドアを開け放して電球を取り外そうとしていたら、そこへ大家さんとお隣のおばちゃん(この二人は姉妹である)が通りかかった。
わたしが電球のことを話すと、「まあしょうがないわねえ○○さんは。」と二人は前の住人のことを話し出した。それでわたしは、そいつが「男」で「若い」ということを知ってしまったのである。
とたんにわたしの脳裏には、会ったこともないのにロン毛で茶髪でぶさいくでろくなもん食ってないのでガリガリにアバラが出ていて、コンビニかGSでバイトしているがやる気がないのでいい歳こいて怒られてばっかいて、ものすごく頭の悪そうなしゃべり方をしてしかも本当に頭が悪い、そのくせ寒い冗談で女を笑わせようとすることだけには必死なバカ男の姿がありありと浮かんできてしまった。
プラスチックプレート貼ってんじゃねえよばかやろう。とれねえじゃねえか。
わたしが貼ったと思われたらどうしてくれるんだ、名誉毀損で訴えたろか。
と思っていたら、数か月後。
名誉既存どころではないきわめつけの大迷惑が発生した。
じつはこの部屋は、入居したときからトイレの水流が悪かった。しかしそれまで住んでいた実家も、かなり老朽化が激しくて水周りのトラブルなどしょっちゅうだったので、わたしはあまり気にしていなかった。
だが入居当初はまだそれほどでもなかったが、だんだん暑い季節になるにつれ、(不潔な話で恐縮だが)トイレをきちんと流しきらないと雑菌が沸いて、悪臭がするようになった。
そこで風呂場や台所の流しから桶で水を汲んで追い流しをしたり、こまめに掃除をするようにしたのだが、トイレのたびにこれでは時間をとられすぎて仕事に支障をきたし、ストレスがたまる。
わたしは実家にいた頃を思い出し、トイレのタンクのふたを開けてみた。
すると中にはビール瓶が1本立ててあり、水流が少なくなるようにつっかい棒にしてあったのだった。前の住人か大家さんか知らないが、おそらく水を節約するためにとった措置と思われる。しかし生活に支障をきたすようでは節約どころではない。
わたしは試しにつっかい棒をはずしてみた。するとトイレの水は、何の問題もなく普通に流れるようになった。
それでわたしは安心してトイレを使い始めたのだった。
が。
しばらくして、階下の大家さんから「トイレの水が流れ続けているのでは」という苦情がきた。わたしには、ちゃんと1回1回止まっているようにしか見えないので心当たりはないと言ったが、大家さんが言うには
「ここはすぐトイレの水が止まらなくなるので、前の人にはビール瓶でつっかい棒をするように頼んであった」
・・・・・・。おかしい、とわたしは思った。
あのビール瓶は大家さんの要請によるものだったということか。
しかし、あの水流のトイレでは普通の人間は暮らせたものではない。
だったらなぜ、前の住人は大家さんにそのことを申し立てなかったのか・・・。
とにかくわたしは、角が立たないように注意を払いつつ、このままではいかにトイレが使いづらいかを必死で説明した。
すると大家さんは意外にも、「そんな大変なことになってたなんて。すぐ工事の人を頼みましょう。」と言ってくれたのである。
数日後、業者がやってきてタンク内の老朽化した部品をすべて取り替え、やっとわたしに平和なトイレライフが訪れることとなった。
しかし、どうにも腑に落ちなかったわたしは大家さんに、
「これ、前の人は修理してくれって言わなかったんですか?」ときいてみた。
すると
「ああー、あの人ねえ、最後の1年ぐらいはガールフレンドのところにずっと行っちゃってて、ほとんどここには住んでなかったのよー。」

・・・・・・心当たりがあるおまえ。
命だけは取らないでやるから、プレートはがしにこいっっ!!

(2001・11・9)


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